兵法の誤り 2013 11 17

「ニューズウィーク日本版 2013 11 12」には、このような記事がありました。

「孫子の兵法」の落とし穴
中国古来の戦略は、21世紀の国際社会では逆効果

 中国の外交政策に関して、
「孫子」という兵法は、中国を誤った方向に導いていると、
戦略国際問題研究所の軍事アナリストである、
エドワード・ルトワックは言う。
 その著書によれば、この兵法のせいで、
中国は、近隣諸国に威張り散らし、
敵を欺く手法に頼りすぎて、
近隣諸国から反感を買っているという。
 中国の指導者たちは、
兵法を成功の秘訣の宝庫と見ているが、
兵法書が説く多くの策略や画策は、
同じ文化の中なら効果があるが、
異文化間では、うまく機能しない。
 孫子の兵法は、中国の内政には、間違いなく有益だが、
21世紀の国際社会では、逆効果である。
 世界の大国になるには、
近隣諸国との友好関係が欠かせない。
 それを理解していれば、
中国は、「アメリカは、どうやっているのか」と考えるはずだ。
 アメリカは、力で優位に立つからこそ、
近隣国に譲歩し、優位を感じさせないように振舞ってきた。
 NATO(北大西洋条約機構)の60年の歴史を
振り返ってみるといい。
 アメリカは、小国ルクセンブルクに譲歩していた。
アメリカは、NATOを結束させるため、
力と権限に、ものをいわせるのではなく、
その逆のことをした。
(引用、以上)
 孫子の兵法は、内政には役立つが、
21世紀の国際社会には、全く通用しない。
それを中国は理解するか。

乾隆帝の時代 2013 8 4
 中国は、清の乾隆帝の時代、唯一の超大国だったのです。
10回に及んだ外征の結果、清の版図(領土)は、最大規模に広がったのです。
 乾隆帝の時代が、清の絶頂期であると同時に、
世界においても、唯一の超大国でもあったのです。
 しかし、清帝国の最後が、どうなったかは、
誰でも知っているでしょう。
 欧州各国は、次々と産業革命の時代を迎え、
多くの国が、「欧州の列強」と呼ばれるようになったのです。
 歴史に「if」はありません。
しかし、乾隆帝の時代に、版図の拡大ではなく、
産業革命を目指していたら、
全く違う未来が中国に訪れていたでしょう。
 産業革命とは、ウィキペディアによれば、
工場制機械工業の導入による「産業の変革」と、
それに伴う「社会構造の変革」のことであるとあります。
 向晩意不適
 駆車登古原
 夕陽無限好
 只是近黄昏  楽遊原 李商隠
 (日本語訳)
 夕暮れ時、心が落ち着かなくなり、
 車を走らせ、丘の上に登る。
 丘の上から見る夕陽は、限りなく美しい。
 しかし、この夕陽は終わりに近く、消えていく。

アヘン戦争 Opium War 2004 4 17
 1840年から始まった「アヘン戦争」の歴史的背景を点検しましょう。
これは、イギリスと中国(清)の貿易問題が、原因です。
 当時、イギリスは、中国の茶を輸入し、
その代金を、銀で支払っていました。
 しかし、茶の輸入量が増加すると、
銀による支払いも増加し、イギリスは苦しい立場となりました。
 そこで、イギリスは、インドで、アヘンを製造させ、
そのアヘンを、茶の購入代金としたのです。
つまり、「銀での支払い」を、「アヘンでの支払い」に変えたのです。
 これにより、中国社会は、アヘン吸飲というものが、
社会全体に広がり、大きな社会問題となりました。
当時の中国政府は、アヘンを禁止しました。
 しかし、当時のイギリスにとっては、
アヘンが、重要な「貿易通貨」となっていましたので、
このアヘン禁止は、大きな痛手だったのです。
 こうして、これが、アヘン戦争へと発展していくのです。
この戦争は、「自由貿易の実現」という大義名分がありましたが、
現実は、アヘンという麻薬ビジネスが生み出す、
巨額の利益を確保するための戦争だったのです。
 そのため、この戦争は、イギリス国内では、「不正義の戦争」と呼ばれました。
イギリス国内でも、こうした戦争に対して、強い反対論があったのです。
しかし、資本家や大商人の強い意向により、この戦争は断行されたのです。
 アヘン戦争で負けた中国は、
外国勢力への抵抗と、伝統社会からの脱皮という苦難の道を歩くことになり、
あまりに大きな「痛み」となりましたが、
これが、中国近代化の出発点にもなりました。











































































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